排除のない社会
難病を発症してから、娘が今まで普通にしていたことをやるのに、「これをこうしてください」という依頼が増えた。
水泳指導は親が見学するとか、AEDを携行するとか、親が娘のそばに付き添うとか、酸素ボンベを持ち歩くとか。
それらは、娘の体の特性に配慮しつつ、娘が今まで通りに振舞えるようにするためのこと。術後の一定期間等、ドクターストップでない限り、その依頼に応えることで、娘は何ら不自由することなく生きてきた。
所属するバトンクラブは、難病を発症しても、デバイスを植え込んで障害者になっても、選手の一人として当たり前に団体演技に参加させてくれて、選手権にエントリーさせてくださった。
そして都や関東、全国や全日本といった大会の会場では、娘の近くへの看護師さんの配置、私や指導者の付き添いを許可して頂くなど、何かが起きても最善が尽くせるようにという運営本部の方々のご配慮により、娘はこれまで障害のない人々と同じステージに立たせてもらってきた。
「可哀想」
娘に対してそう発言する人は、「難病や障害がない自分は、難病で障害のある私よりも優れているという「優生思想」が根底にあると思う」とは娘談。
娘はいつも笑顔で明るく、人当たりも良く、自分の意見を自ら声高に叫ぶことはない。ただ、時々、雑談の中で、こうした彼女の考えに触れることがある。彼女は自分に起きた出来事に「感情的」になるのではなく、「論理的」に思考し、自分なりの考えを構築していく。時に「前はこう思ってたけど、最近こんな出来事があってさ、こう考えるようになったんだよね」等、自分の考えをしっかり持ち、それを誰かを非難したり否定したりする単語を用いることなく表現し、経験により更新していける人なんだなぁと、わが子ながら感心させられる。
「差別を無くそう」という社会の標榜。
実は私たちはこれまで、差別だと感じるような配慮という名の排除をされたことがない。
学校や部活、民間の演劇団体、所属クラブやバトン協会の開催する各種大会やイベント等など、娘を障害のない人たちと同列に扱う。何かあった時のためにということで先述の通りの個別的配慮の依頼はあるが、難病や障害を理由に娘を排除しないためのことである。
車いすバスケ然り、ブラインドサッカー然り。障害があることにより障害のない人と同条件・同等に競うことが難しい競技については、障がい者スポーツとして存在するものがある。けれど、障害のない人が車いすバスケやブラインドサッカーをすることもある。
一方で、海外にはデバイスを入れているプロ選手も活躍している。娘と同じように、障害がある人が障害のない人と同条件で同等に戦っている。
スポーツの世界は、障害のあるなしで人を選別することなく、共にスポーツをする土壌がある、「インクルージョン」な世界だと思う。
日本では、「障害者です」と提示すると妙に親切に扱われ過ぎることがあり、また「障害があることで有利に扱ってもらおうとしている」と思われることもあり、「障害者です」と提示することに、障害者本人が抵抗感を抱きやすい社会であることは否めない。
それでも、内部障害者である娘は、目に見えて障害が明確ではないため、ヘルプマークを付けて堂々としている。電車の車内で、体調が悪ければ座席を譲ってもらうし、体調が良ければ座らなかったり、座っていても座席を譲ったりする。「もし発作が起きても、これがあることで、この子は何か障害があるんだな、と周りの人の混乱を軽減できる」「体調が悪いのに無理して立ってて倒れたら、逆に迷惑をかける。体調が良い時は難病も障害も関係ないんだから立つし席を譲るのは普通のこと」と言う。
インクルージョンは、「包括的」という意味であり、「いかなる障害であってもその障害を理由に排除をしない」ということな訳だけれど、障害のあるなしで生じる配慮は、子どもであるとか高齢であるとかへの配慮と同じ。社会生活を営む人間という存在が、赤ちゃんとして生まれ、子どもになり大人になり高齢者になり、という年齢による変化という必然に対する配慮が当たり前にあるように、社会には障害がある人もない人もいるのが当たり前で、それぞれに対して配慮があるのは当たり前の「ソーシャル・インクルージョン」な社会であって欲しい。
難病やデバイスとともに生きる娘への医療的見解から課される制約があるのは致し方ないことだけれど、障害に対する「安全面への配慮」という大義名分で排除することによる差別ではなく、様々な工夫や配慮によって障害のある人が障害のない人と共に様々なことができる、そういう環境構築が当たり前で、誰もが普通のこととして選択していく日本社会であって欲しいと願わずにはいられない。
私たち母子は所属クラブ、各バトン協会、区や都等のこれまでの「排除しないためのご配慮」に改めて感謝しています。
0コメント